1.13号台風の被害と復旧

 1.海水侵入は3度

 明治21年(1888)の毛利新着工以来、現在までの107年間に、暴風雨のため、新田の堤防が破壊され海水が侵入したことが3回あった。

 最初は、明治22年(1889)の9月11日の大暴風雨で、2ヵ月前に濡止めを終えたばかりの毛利新田の堤防が破壊され、人夫数十名が行方不明となり、開墾事務所は洗い流された。「神野新田」は、牟呂村大西の芳賀保治は当時の日記に、風水の模様を次のように記している。「午前1時より強東風、天候不不穏、漸次風力を加え午後に至り益々暴風となり、覆盆の大雨を交え、午後7時海嘯起り、吉田新田堤防悉く破壊す、及び明治新田・ 青竹新田・福島(富久縞)新田等悉く破壊せる。字〆切堤及作神通り是亦前同断、家(芳賀家)床上3尺浸潮となる」。暴風雨にくわえて、未曾有の大海嘯に見舞われ、新田の堤防は原形をとどめぬまでに破壊しつくされ、開墾事務所などの建物は、帳簿・什器などと一緒に悉く洗い流され、出張中の諸役員はわずかに身をもって逃れたが、人数十名は逃げおくれて行方不明となり、惨状まことに目を覆わしめる有様であった」と、その惨状を伝えている。海嘯(かいしょう)は、 満潮の際に遠浅の海岸、特に三角形状に開いた河口部に起こる高い波で、南米のアマゾンは特に有名である。

 2回目の浸水は、明治25年(1892)9月4日で、死者を出し、毛利祥久をして再築を断念せしめた大惨事となった。「神野新田』には次の如く配されている。「正午頃から吹き始めた暴風は、夕方頃には豪雨を伴っての大暴風雨となり潮水を押し上げ、わけても三河海岸は最も強烈にして、死傷者40余名、家屋の流失・破損など9,000余に達する大災となった。毛利新田では、大手堤防のうち前年崩壊して修覆せられたところを襲い、生川筋からも潮水が侵入し、逆まく波は非常な勢でみるみるうちに新田に氾濫し、たちまち130余の人家を押流し、住民は浮きつ沈みつ救助を求め、あるいは流木にすがってく一命を助かったものもあったが、波にのまれたものも少なくなかった。小作人たちは、親を失い、子に別れ、夫婦は別れ別れになり、家屋も什器も食料も波に奪われ、翌日からの生計の資にも窮するという惨状を呈した。 新田事務所も破壊せられ、一部を残すのみの混雑のなかに、岩本賞寿・桑原為全などによる適宜の指置で、僅かに貯えてあった非常用の米穀をとり出し、急ぎ薄粥をこしらえて、群がる罹災者の一時の飢えを救ったのであった。

 常々辛苦経営した毛利新田も、一夕にしてもとの潮海になってしまった。耕作者は勿論、経営委託者達も、再びもとの鹹潟(しおつち)になった田畑を前にしては手の施しようもなかった。岩本貴寿は、一応の被害調査を終えると、この報告書をまとめて、山口県の毛利祥久のもとに送った。 関係者一同は現地にあって、善後策について協議懇談の日を重ねたけれども、然るべき名案も出なかった。

岩本の報告を受取った毛利祥久は、今度の災害の意外に大きかったこと、相続く災害に多額の金額の必要であったこと、それに今度の災害で多数の人命が失われたことなどを深く考え、再築の計画を断念するよりほかないと決意した。小作人もこの惨状を身を以て体験して、新田に止まるものは、ほとんどなく、多くは離散してしまった。この25年の大暴風雨によって牟呂用水の方も、豊川堰堤や、宇利川洗堰や付近の用水堤防などは大損害を蒙った」。


 藤城藤一さんの回想

「二回は、沖ノ島に終戦後新しく作った樋門がやられた。二回は総面206町歩、三郷は673町歩、3分の1もなかったので浸水が早かった。河合陸郎さんも寝ていたら水が来ちゃったと言ってみえた。三郷の浸水はおそかったが、2日後には道路もわからないほどになった。4~5日したら、稲の上を舟が走った。やっぱりゼロm地帯だったと思った」