6.二十間川堤防嵩上げに衛隊応援

 復興は、何よりもまず第四号堤と二回部の欠壊場所をふさぐことであった。最大の難関は、第四号堤の決壊口で「深さは干潮面より約5mであるが、毎日の干満による流速10mに及ぶ水流のため、深さを増しつつ」あった。県土木部には「澪(みお)止めに関する経験者なく、遺憾ながら未だに確たる施工に自信なき模様である」とある。従って、まずは二十間川堤防に応急に積まれた石俵の嵩上げをして、五郷部への浸水を防ぐことになり豊橋市土木課の石川技師の指揮のもとに陸上自衛隊豊川基地および神野新田農民が協力した。第四号堤欠壊口の復旧施工方法が確定したのは10月3日、着工したのは10月6日であった。二回部は10月6日から測量を始め、着工したのは10月9日であった。

 以下、記録に基づき、第四号堤欠壊現場および二十間川現場の工事と三郷部および五郷部住民の活躍を記述する。二回部の現場にも同様の困難な工事と二回部住民の敢闘があったのであるが、資料の関係上、二回部の記述は簡略となることを諒とされたい。

 二十間川左岸堤防の延長2,250mには、応急に土俵2俵分の嵩上げがなされていたが「既に三郷地区内の水位相当高まり、毎日数ヶ所欠壊し、これが補強に必死の努力が払われている状態」で、その対策は急を要した。対策委員会設置の当日から、神野新田農民は二十間川堤防の嵩上げをはじめた。作業は「二十間橋の裾に叺及び俵を下し、船にて港湾敷地まで運搬、土俵を作り作業をなし、一方土俵の出来たものを直ちに機械船にて運搬、二十間川堤防に嵩上げする」(現場日誌)というものであった。初日の28日の出来高は、字テノ割角を中心に約200mであった。この日の出動人員は、二十間川と四号堤にそれぞれ300人づつ、五郷部より発動機船5隻で、ほかに養魚組合などから4台の自動車を借上げた。自衛隊は明日よりの出動に備えて調査に来田、宿舎は八軒屋全部、本部を伊藤多七方とし、食事と飲料水は原隊より運搬することとなった。

 翌9月29日には、豊橋市土木課より3名が現場監督に、そして、陸上自衛隊豊川基地より230名が、舟艇十数隻とともに来田、雨の中を直ちに作業を開始した。「一部は土俵作り、一部は舟にて土俵運搬、一部は土俵処理に従事す」「五郷部落より借上げたる舟を数隻つらねて自衛隊の舟にて曳航、一回の航行にて約100俵の土俵を運搬処置せり。この間を五郷の発動機船往来し、二十間川は宛ら戦場の如し」「自衛隊作業、午後11時に終了せり」とある。この日の出来高は「テの割角150mの所より始めて火葬場まで。下流部分は中村養魚より樋門まで完成」した。

 四号堤の現場は、前日と同じく破口の拡大を防ぐ作業をした。まず、破口に5俵の土俵を投下し、小林源蔵の協力を得て、移動状況を調査し、潮に流されないことを確かめた。「県土木よりは工法の確定するまでは、破口に於ける石俵投下を厳重に禁止されたるも、流失憂なき確信を得たる作業員は、一日も早く澪止めを決行せんものと、松ノ木島で作成した石俵を三郷部落の機械船で投 下作業を続行せり」「陸郎がどこからか15万俵もの南京袋を手に入れてきた。若い者たちを遊ばせておいてはいけないと、陸郎と判治清は相談して、近くに砂利混じりの州があったので、そこで砂利をつめさせることにした。数百人の地元民が出て、4日ほどですべて詰めてしまった」「河合陸郎伝」)。これが締切に役立ったのである。

 この日、自衛隊員230名のほか、市消防団130名大西自警団45名が応援にかけつけ、土俵作りに協力した。神野新田よりは440名が出動、ほかに13の船も参加した。二十間川の堤防夜警を三郷自警団と五郷町内が午前1時まで行なった。「本日雨天のため作業難渋を極めたるも、作業員の意気天を衝くの観あり。順調に進行せり」。

 9月30日は、水位が高くなったため、早朝より午前8時まで、五郷部落民全員出動、警戒した。自衛隊員は増員して二十間川の嵩上げに従事した。二号堤で2ヶ所洩水あり、との報告で、直ちに現場を調査した。この日は、自衛隊員270名のほか、大西より14名高州婦人会6名が応援に来田した。

 10月1日も雨であった。自衛隊は、二十間川嵩上げ土俵積工事を一応完了し、土俵の移動を防ぐ竹しがら工事に従事した。激しい交通で道路が泥流化したので砂利を投入した。三郷と五郷の87名で夜警をし、夜食が配られた。大西より17名牟呂町市場より26名岩田青年団75名の応援があった。自衛隊員は249名神野新田より354名が出動した。

 10月2日も雨が降った。三号角より東へ百数十mの所より約100mにわたって亀裂が2・3段に生じ、堤防の上を洗い取られる恐れが生じ、その修理作業が必要となった。二十間川の嵩上げは一応終ったが、土俵間の目地埋作業を行なった。必要な土砂は、五郷部落の発動機船を総動員した。四号堤の破口拡大防止作業は、引続き行なわれた。

 自衛隊は、任務を完了し、この日午後一時帰隊した「工事に従事中は、天候悪く殆ど雨降り続きで、作業困難を極めたるも、隊長の命令のもと、よく地元と協力、この大事業を短期間に完成せられ、地元民を水難の危機から救われた行為に対しては、誠に感謝に堪えません」とある。大野佐長豊橋市長が来田して自衛隊にお礼を申し上げた。この日は、自衛隊員のほか、大西より10名の応援があり、神野新田より431名発動機船13隻が出動した。


第4号堤決壊口の潮の流速は10m/秒に達し、1日中停止する時が無く、石俵投下は難渋を極め、決死の作業だった。錨を下ろしても船を適当な場所に止めることが出来ず、綱を切断されたり、混雑して堤防に激突して沈没したりした。このため作業方法を変え、船を止めずに石俵を投下して旋回して帰るようにした。スピーカーや旗の合図も使われた。