8.ミオ止め作業

 10月3日、「県土木」は、漸く復旧工事方法を決定した。第4号大堤防欠口の復旧工事は、欠箇所に、直接、石袋および捨石を投入する一方、「4号養魚の三九堤防を 嵩上げすると同時に、天然川も三九堤と同じ高さの堤防を築いて破口のを減じ」双方の工事を同時に進めて、破口を切ろうというものであった。 前者は県の直営で 地元が協力し、後者は藤城建設と水野組の請負工事であった。 結果は、前者の破口を直接埋める工法が進捗し、後途中で切られた。17日後の10月20日に至って、ようやく切りに成功した。二回新田の樋門と桝形の2ヶ所の欠壊口の復旧工事は、建設省中部地方建設局が自ら当り、「大堤防より三九堤を南へ向け補強して樋門にて喰止め、この中へサンドポンプにて土砂を吹き、切所には粗朶沈床のうえ、石俵で押さえ、一気に築止めんとする」もので、ようやく10月31日に潮止めに成功した。両方の締切成功までの涙ぐましい経過を「災害記録」「現場日誌」でみれば、次の通りである。

 まず第四号堤破口現場では、これまで投入した石が流されずにあることを10月11日に潜水夫が確認、以後毎日小船50ないし80艘、砂利採取船数艘ないし15艘によって石俵4千袋ないし1万袋、および7艘ないし15艘が石材を、それぞれ局所に投入した。発動機船を持つ二回地農民も石運搬投入に参加した。10月16日には、干潮時に水面上に現われるまでになり、20日には潮止めができた。この日の「現場日誌」には「天の助けか、波風なく、本日の満潮位ですら、平均して1尺足らずの水面を残すのみ。これを見た作業員の意気大いに挙り、是が非でも今日澪止めを完成して見せんものと、大いに張切り、女子までが20数貫 (約90kg) もある石俵をかついで大船から運び並べる作業、涙なくしては見られぬ光景である。これ一途に1日も早くなつかしの吾が家へ帰りたい一念からである。掛声勇ましく作業順調に進み、午後7時には作業完了、上巾約3m、高さ約満潮時の水面までの石積みに成功したのである。 この成功のためにあの災害の日から日夜奮闘したのである。全員万歳を唱和、警戒員4名を残して午後9時帰宅せり」とある。以後も石材、石袋で補強して、25日には心配ない所までできた。27日からサン ポンプで内外面を埋め、11月上旬には「まず大丈夫」となった。新田内部の海水排除は10月29日と30日で殆ど終り、三郷地内の住民も一部を除き30日には帰宅した。堤防の嵩上げも続き、11月26日には大体元の高さまで嵩上げされた。外面法先には木枠を組み、石材石袋を入れて波止めをし、いよいよ本工事にかかる準備ができた。一方、二回新田の破堤現場には、二回新田の農民のほとんど全員が出動した。海軍飛行場のあった大崎島などの石材を南京袋につめ、舟で運んで、欠壊口の潮の流れが止まったときに投入した。こちらは、三号地にくらべて狭く、決壊口が2ヵ所だったので潮の流れが止まる時間があったのである。 粗朶沈床10月16日から始まった。この粗朶沈床工法は、中部地建が天龍 川で成功し、ここへも採用された。粗朶(そだ)を直径20cmくらいに束ねたものを筏に組んで欠壊口へ運び、石俵と共に沈め、この沈床の上にサンドポンプで砂利を積み上げたのである。サンドポンプの土砂取りは、牟呂漁協の協力を得て六条潟とされ、23日から運転が始まり、31日に潮止めができたのである。「一同始めて晴れやかな笑顔をみる。建設省の日夜を分たぬ御奮闘に、ただただ感謝の外はない」とある。「家へ帰れたのは40日ぶりだった」と伊藤与曽松は回想している。