3.13号台風の被害

 愛知県の海岸堤防は152km余に及ぶが、戦時中の昭和19年(1944)12月7日の東南海地震、昭和20年(1945)1月13日の三河地震および昭和21年(1946)12月21日の南海地震と連続した地震によって30~60cmの沈下や亀裂等を生じて弱体化していた。修築工事も進められつつあったが、たまたま台風13号に遭遇し、海岸堤防の欠壊により、51,000余町歩に浸水する大災害となった。神野新田四号堤の決壊場所も修築工事中であった。普通なら、ちがや(茅)が長く伸びて風雨をえぎるのだが、工事で刈りとったため裏の砂が洗われてしまったのであった(「河台陸郎伝」)という。愛知県の被害は、死者71人、行方不明24人、負傷者1,731人、被害総額は600億円を超えた。堤防の欠壊は680ヶ所におよんだ。

 「災害記録」には「風力次第に強まり、午後7時頃、最も強烈に吹きすさび、一旦凪ぎたる風は7時半頃より西風に変り」とある。台風の「目」に入って、一時風が凪ぎ、台風は東北方向に通過した。このあとは西風の吹き返しが猛烈を極めた。これが被害を大きくした。「災害記録」は続く。「時恰(あたかも)満潮時の高潮と共に津波となりて、一丈(約3m)の高潮は、神野新田護岸堤を洗ひ、二回新田の大手、昨年新調したる3連樋門より西北に向ひ約100mの間に2ヶ所の澪(みお)が出来た。このほか、梅田川に面する護岸堤は全面的に崩壊し、枡形内に於いても数ヵ所の決壊ヵ所」を生じた。二回新田の破壊された樋門は、現在の二回地樋門よりも南に梅田川に近く戦後築造されたものである。二回新田には直ちに海水が侵入し、二回の沖ノ島の私の家は、おじいさんとおばあさんと子供5人と私たち夫婦の家族9人が家の中へ閉じこめられた。必死で二階の屋根へ上がった。大崎から来た救援の船が2階へ横づけになって、助けられた」(伊藤与曽松の回)。突然の浸水なので、寝ていた背中に水がついていて飛び起き、稲叢へ飛び乗って共に流された人もいた。一方、三郷部に於ては「第四号大堤防20番観世音より22番に至る400mの間に欠ヶ所8ヶ所を生じ、其中のもの約70m、最も甚だしく遂に破堤して海水の侵入する所となった」「破堤現場に立った石川は、60余年の間不破堤と誇った大堤防が、堤体の大半をそぎ取られ、人造石のみ骸骨の様につっ立っている姿を見た。しかし空は台風一過、中秋の丸い月が輝き、幾万もの星が空一面に美しく光っていた」(「河合陸郎伝」)。そして破堤と同時に干潮となったため、翌26日午前9時まで、海水の侵入は少なかった。

 五郷部に於いては、「欠壊ヶ所10ヶ所を生じたるも、幸い破堤に至らず、三号部より侵入し来る海潮を二十間川堤に於て喰止め、海水の侵入を免れることが出来た」とある。

 五郷自警団は、町総代をはじめ五号の幹部の協力のもとに、全団員を招集して態勢をととのえていたが、四号堤の欠壊に対応し、侵入する海水を二十間川堤防で食い止めるため、豊橋市各消防団の救援を得て、二十間川堤防に土俵を積んで浸水を防ぎ、五郷部落と耕地を守った。二十間川堤防の土俵は、後述するように、その後も補強が就けられ、最後まで浸水を防いだ。

 海水の侵入は、「13号台風による海水侵入地域図」に示す通り、神野新田に於ては、三郷部と二回部であった。そのほかの決壊箇所は「三号南より北にも護岸堤に約100m亀裂を生じたる箇所あり。其他、新田内部 に於ける三九(さんく)堤の決壊、道路、水路、橋梁等の被害甚大なり」という記録によって知ることができる。しかし神野新田に於ては死者も行方不明者も負傷者も1人もなかったのは、不幸中の幸いであった。

 家屋や家財の被害と避難先の状況は「二回新田に於ては、海水の侵入早かりしため、家財を避難する余裕なく、殆ど水浸しにしたが、三郷部に於ては破堤と同時に干潮時となり、一時的海水の侵入は少なく、翌26日午前9時頃までは避難する余裕があったので、大概は避難し、家財を水浸しにしたものは僅かであった。家屋浸水の状況は、二回新田に於て床上2尺5寸が最高であるが、殆ど床上浸水である。三郷部に於ては、面積の広いのに澪が割合に狭いので、床上1尺くらいを最高にて、大概床下浸水くらいである」「三郷部ノ土地ノ高低ヲ見ル二、宅地ノ最モ高イノハ、ワ、カ、ヨ、タノ四字デ、床上浸水2・3寸(6ないし9cm) モノ多ク、北組ノ用水路添ハ、殆ド床下浸水程度デ済ンダ。第一号堤ヨリ第四号堤マデ、総ベテ大堤防添ガ低ク、田面デ、最モ深イ所ハ4尺5・6寸(1.35ないし1.38m)ニ達シタ所ガアル」これら避難者は、一時、牟呂本村および磯辺方面の知人をたよりて避難せしが、被災後7・8日頃より、小中学校、公民館、圓龍寺、組合倉庫等に集団的避難をする様になった」とある。家畜の被害状況は「困ったのが畜牛で、中には雨の中を其のまま野天に置くものもあり、難儀をした。鶏、豚等はだいぶ殺したものもあった」。農作物や養魚の被害状況は、稲作は一粒の収穫もなく、畑作は浸潮後早期に収穫したものの外は全滅、養魚の被害も大きかった。「稲作 今年ノ稲作ハ第一化螟虫ノ被害が甚大ナリシタメ、第二期二於テ駆除ヲ励行シタル結果、成績非常二ヨク、虫害ハ、殆ドナク、出穂時季天候モヨク、本年コソ増収疑ヒナシト喜ンデ居ッターガ、逐ニ一粒ノ収穫モナク、悲惨ナリ。早生種ハ既二乳熟期ヲ卒ヘタル後ナリシタメ、シイナ米ガアリシモ、潮水ノタメ鶏ノ餌二モナラン。一ヶ月間、満潮時二ハ潮水二浸リ干潮時二ハ上リ、見ル二忍ビザル有様デアッタガ、稲ハクタレズ二立ッテ居ル」「畑作甘藷ハ浸潮5日目クライ、如何様二モ食スルコトガ出来タガ、其後収穫シタモハ食べラレン。里芋ハ7日クライマデハ食べラレル。其他モノハ全滅。砂糖キビハ一ヶ月後二モ枯レズ二居ッタガ、塩辛クテ食べラレン。樹木ハ松、槙等ハ却テ葉色ヲ増シテキタ感ジガシタガ、落葉樹ハ殆ド落葉シタ。今後ノ状況ヲ見ント分ランガ、イズレ枯死スルデアラウ」「魚類ハ鯉、鮒、鯰等、全部死滅シテ寄リ付キ、臭気甚ダイシ」と伝えている。




第3.高潮による被害と植生

 昭和28年9月25日の13号台風においては,東海地方は異常な高潮におそわれた。この高潮によって、知多湾や渥美湾の沿海地域は、家屋の全壊や浸水、農地の埋没その他数億に上る損害をうけた。しかし、この著しい被害地のうちにも各種の状態があらわれており、倉田一二氏は神野新田の被害地について、堤防上の植生の有無によって被害の状態のちがうことを観察している。すなわち堤防上に植生のないところでは、高潮が堤防をのりこして、その堤防の背面をけずり、裏側に穴をあけて、決潰の糸口をつくり、大害を 与えている。しかしトキワススキ、チガヤや80cm ぐらいに伸びたササの密生しているところでは無事であったといわれている。このように堤防上の植生が堤防の決潰を防いだことや、濁流がそこをのりこしたとき、裏側からくずれた実例は、三重県津市の海辺などにもみられた。このことは、堤防上 にササなどの植えつけを教えるとともに、堤防の前面ばかりでなく、背面をよくかためなければならないことを示した注目すべき現象である。