4.愛知県に復旧を依頼 自衛隊の応援も

 被害を受けた神野新田農民たちは、直ちに復旧にのり出した。特筆すべきことは、堤防等は公共財産として、国、県、市町村に管理責任があったが、神野新田の農民たちは、自ら澪止めをなさんとしたほどの強い愛情を見せたことである。復旧対策は、最初、三郷部、二回部、五郷部がそれぞれ異なった対策を講じようとした。被害状況に差があったからである。「災害記録」には「始め、三郷部に於ては、被災者自ら澪止めをなさんとあせって見たが、資材がととのはず、日一日と澪は大きくなり、手の施し様がなくなったので、4日目に至り、相談の結果、県に御願ひして復旧して貰ふ様申請することになった。二回新田は、元より地元に於て到底復旧の力なしとして、最初より県に委存する決心を以て進んだ。五郷部に於ては、二十間川右岸堤防を保護することによって災害を免れる公算にあるので、此辺に全力を傾注した」とある。この記録の中で「4日目に至り、相談の結果」とある様に、9月28日に「水害復興対策委員会」が発足し、愛知県に復旧を陳情した。「河合陸郎伝」には「陸郎の働きかけもあって13号台風の堤防締切工事中最大の難関といわれたこの神野新田第四号堤防大壊口の締切りは、県直営で行うことが決定された。大建設会社も調査に来たがどこも請け負う所はなかった。澪の真中に鳴門海峡ばりの大きな渦巻ができ、測量してもすぐに変わってしまうからであった」とある。

 愛知県は、三郷部の四号堤防の欠壊口の締切工事は県直営を以て施行し、その労力は、県の「人心の安定と罹災者の金銭収入の途を講ずる」という方針により、三号部住民を中心とする神野新田農民が提供し、二回新田の103mに及ぶ堤防欠壊ヵ所の修理工事は、中部地方建設局に委託し、地元の神野新田土建株式会社(神野建設株式会社)がこれに従事し、二回部住民を中心とする神野新田農民が協力した。残る二十間川堤防の嵩上げ保全は、豊橋市が担当し、豊橋市は陸上自衛隊豊川基地の応援を要請し、五号部住民を中心とする神野新田農民が協力することとなった。

 自衛隊の応援には、すでに台風の翌日から動きがあった。「河合陸郎伝」には「朝六時半ごろ現場へ駆けつけたところ、堤防の上でバッタリ神野太郎さんに出会った。心配顔の神野さんは「いま河合陸郎さんに保安隊の救援をたのんだところだ」と話していた」(清水徹の回想)とある。当時、地元から県会議員に河合陸郎、市会議員に判治清が出ていたが、市、県、国への陳情のため寝食のいとまもない日々がはじまっていた。当時、豊橋市長は大野佐長、愛知県知事は桑原幹根であった。

 経過はこれらの記録の通りであるが、何しろ、未曾有の大災害に直面して議論百出、混乱と錯綜を極めたこともあった。三郷部の破堤現場で自ら澪止めをなさんとあせっているとき、長老の一人である石部太之助が二回部への応援の懇願に駆けつけたり、また「河合陸郎伝」には、堤防の切れた翌日の夜、緊急役員会が開かれたが「集まった者たちは天に対する怒りや不安で興奮し、また、堤防補修の方法で様々な意見が出、蜂の巣をつついたようになった。その騒ぎは夜半になってもおさまりがつかなかった」とある。また、「注意、色々のうわさがありますが、工事関係については、本部発表以外は信用できないものが多い。迷わされるな」という「注意」が災害対策委員会の発足に当たって発せられたのも、それを物語っている。