10.難渋を極めた石俵投下

 第4号の口は、深さ9mにも達し、潮の流速は、毎秒10mという速さで、しかも停止する時がなく、石俵の投下は難渋を極めた。松の木島や梅田川河口や二十間川河口で砂利を南京袋に詰め、船で運んで決壊口へ投下するのであるが、錨を下しても、投下に適当な位置に船を止めることが出来ず、綱を切断されたり、自ら綱を切断して逃避したり、作業員は必死であった。特に風が強くて波が高いときは「破口に於て水流と波が闘い波浪高く非常に困難」であった。風が静か な日には約7千袋から1万袋の投下ができたが、風が強い日には約5千袋しか投下できなかった。転覆した船も あった。「12日東の山本智の船1艘、破口にて転覆してたるも、幸い1人の負傷者なく」「豊工丸、石俵を満載、混雑した破口現場に進んだとき、前の船を避けんとして堤防に衝突、鞆に穴あき危険となり、石俵を捨てたが遂に沈没せり」。このため、作業方法を変え、船を止めずに石を投下して舟溜で旋回して帰るようにし、混雑を改称した。

 船賃は、当時の相場より5割増とした。石俵投下は、10月16日には船の底が石に接触するほどにまで進んだ。18日には決壊口に船を着けできるほど石俵が高くなった。10月20日に止めに成功したが、最高潮日は22日であり、且つ石俵の勾配がでの恐れがあった。「21日、吾々は尚一層頑張って、以上の危険状態を克服しなければならない。 今までの努力が実を結ぶか、水泡に帰すか、皆の肩にかかっているのだ。 石俵の嵩上げ並びに補強に全力を集中。50名徹夜警戒す」「10月23日、昨日の最高潮位を無事過ぎ、役員一同ホット胸をなでおろす」とある。その後も補強の土俵運びは続けられたが、人手不足のため、10月25日には牟呂中学校の男子生徒が出動した。「10月27日 連日、早朝5時出動夜9時まで残をなし、1人で2人分の作業をす。作業員の過労甚だしく、明日から2交代制とする」。この日から待望のサンドポンプが補強作業を始めた。土砂は、牟呂漁業協同組合の同意を得て、六条潟から採取した。「10月29日 サンドポンプによる嵩上げ成功。本日から新田内部の海水を排除するため各所の門を開き、排水に全力を尽くす」とある。10月7日より26日までの石俵投下量は、表の通り10万を越え、発動機船出動は730艘。10月6日より10月29日までの総出動人員は延13,426名、サンドポンプ船噴出土砂は8万立方mにのぼった。