11.復興とお礼挨拶廻り

 除塩のための牟呂用水道水は、11月3日の牟呂用水土地改良区役員会および総代会の決議を経て、11月15日より行われることになった。11月9日には豊橋市農務課より塩分の濃度調査に来田した。新田内部の災害状況を豊橋市土木課と愛知県豊橋農地開発事務所が11月7日より10日にかけて調査した。査定は11月23日に行われ、申請の6割が承認された。

 11月2日から、早速、各方面への御礼の挨拶廻りが始まった。この日、委員6名が農協オートバイを飛ばし、市内の各農協、愛知県豊橋土木事務所、豊橋市役所、愛知県豊橋農地開発事務所、豊橋警察署、豊橋市消防署、陸上自衛隊豊川基地へ、4日には委員11人が河合陸郎県会議員の案内で、愛知県庁および中部地方建設局へ、12日には石部太之助委員長と伊藤宗太郎間が豊橋市内の船会社へ、14日には石部太之助委員長と判治清顧間および伊藤宗太郎顧問の3人が名古屋の神野・富田両家へ、17日には石部太之助、伊藤宗太郎 柴田留五郎が中部地方建設局へ、それぞれ御礼を申し上げた。なお、知県豊橋土木事務所の水野勘五郎技師は、第4号堤防澪止現場の指揮のため、新田に泊り込みで駐在、特に破口の澪止め方法につき、石俵直接投下を力説、採用せしめ、早期澪止めを成功させた功労者であるが、11月になる 前職場への復帰命令があり、惜別の小宴が催され心より別れを惜しみ、また、11月14日には、石部、判治、伊藤の3名が、勤務先の庄内川事務所に水野勘五郎技師を訪ねて挨拶をした。11月29日、神野新田復興対策委員会は「もはや非常勢の要なきまでに至った」ので、解散した。翌年の昭和29年1月11日午後1時 より、神野新田三郷公民館に神野新田住民が集まった。河合陸郎県会議員が「災害による神野新田護岸堤並びに新田内の災害復旧の詳細について」、加藤七平文学博士が「報徳精神による人心並びに経済の安定による郷土建設」、元地主神野三郎が「災害を契機として改革を要する緊急事項につき」、それぞれ講演のあと、次の宣言を決議し、「神野新田の澪止め工事実況」映画を上映した。

 「宣言 吾等神野新田住民は、今回の災害を天の試練と心得、数多体験したる苦難を活かし、先ず以って護岸堤防の保護看視を怠らず、再びかかる災害なき様注意すると共に、内にありては一層業務に精励し、産業増殖に専念し、冗費を省き、豪奢を慎み、貯蓄を守り、郷土愛に徹底し、相互扶助の精神を以て理想を建設し、団結の力を大にして新田の経営に当らんとす。又、今回の災害により社会大衆の同情により受入れたる労力、資財、精神の援助は、お互いに感謝と共に永く記憶にとどめ、何れの日か之が報恩の機会を忘却せざらん事を期す。右宣言す」

 なお、坂部幸一豊橋土木出張所、水谷稔同主任、松原修一同災害復旧長、水野勘五郎同現場主任、金子牧事中部地方建設局豊橋出張所長、小高典一郎同工務課長、 鈴木重忠同二回出張所長に感謝状が贈られた。