神野新田土地改良区の発足

 1.戦後の管理主体の変遷

 神野新田にとって片時もゆるがせにできないのは、海岸堤防および極門、排水機、用排水路、農道、橋梁等の維持管理であることは、いうまでもない。それは、公共団体の任務であるが、その補完の役割を戦後、神野新田土地株式会社、神野新田農事実行組合自作農創設維持部、神野新田土地農業協同組合および神野新田土地改良区が担ってきた。すなわち、昭和21年5月、神野新田土地株式会社より農地解放を受けた神野新田農事実行組合は、直ちに別会計による自作農創設維持部を設けて、これら土地の管理を継承した。神野新田農事実行組合時代の土地改良事業として特筆すべきは、昭和11年(1947)に二回地域に百馬力排水機が、また昭和23年に五郷地域に百馬力排水機が設置されたことである。永年の案が自作農創設後に最初に着手されたのである。それは稲作をはじめ裏作の麦、馬鈴薯などに好影響をもたらした。昭和22年(1947)12月の農業協同組合法施行に伴い、翌23年月の神野新田農業協同組合設立と同時に、神野新田土地農業協同組合を設立し、土地の管理をはじめとする自作農創設維持部の事業を継承した。

 昭和24年、耕地整理法にかわって土地改良法が制定されると、三郷・五郷地区よりも先に耕地整理事業を完了した二同地区は、昭和26年9月19日、同地区のみを対象とした「神野新田土地改良区」を設立した。ついで、昭和27年に三郷・五郷地区の耕地整理事業が完了すると、昭和29年1月2日、神野新田土地改良区は、その地域を神野新田一円に拡大し、その目的も拡充し、同時に、神野新田土地農業協同組合の事業と資産を継承した。かくして、神野新田の土地の維持管理および土地改良という重要な仕事が神野新田土地改良区に継承され、今日に至っているのである。

 2.困難だった戦中戦後の護岸 

 神野新田の堤防道路・水路等の修繕工事等を受託した神野新田土地株式会社は、昭和10年代後半になると、戦争激化のため、資材労務とも不足し、その工事の施行 に難澁した。事実、同社は昭和18年(1943)1月 の波浪や翌19年12月の震災による堤防破損の修理工事の完成延期願を豊橋市へしばしば出している。しかし万一のときは、自らの生命や財産の危険につながることであり、工事の遅延は断腸の思いであったと思われる。その緊迫した状況を次の一文は偲ばせる。

 「敗戦の三日後に、私(浅野甚七)は神野三郎翁に事務所に呼ばれました。秋の収穫を前に堤防が危険だから九月末までに村の人々と力を合せて堤防修理の突貫作業 の総監督を命ぜられました。私の号令で残暑厳しい海の風に吹かれながら、日の出より日没まで村の人々も実によく楽しく働いてくれ、力を合せて目的に邁進する喜びを味う貴重な体験を得ました。特に、今度の仕事は、新田で生活させて頂いた御礼の気持で無報酬だよ、と気軽に言われましたが、村の方々には浅野は奉仕で働いているからお前達も負けぬよう頑張れとの無言の助言となり、予定日を前に完成出来ました」(『神野三郎伝』より神野太郎の妻花子の弟浅野甚七の回想)

 3.神野新田土地農業協同組合の維持管理活動

 昭和23年4月30日に設立認可された神野新田地農業協同組合の事業目的は、護岸堤防の維持管理、耕地整理、土地改良、灌漑排水、池沼の管理、自作農創設の完成、その他であった。その第一年度の事業報告書には海岸堤防につき「昭和19、20年の地震による被害復旧工事の内、特に急を要するものの大部分は、神野新田農事実行組合において応急工事をしたるも、尚これが補強および修繕工事を要するもの多く、農繁期を除く期間中作業を行い、ようやくその一部を完了し、一部は現在も工事中なり」とあり、5号、4号、3号の各堤防裏護岸修繕工事や各堤防の目塗工事などに努力したことを報告している。その費用については、県、市の補助金も増加せるも、組合員への賦課金額も当初の見込みより増加せるは止むを得ざる実情なり」とあり、補助金349万余円、賦課金256万余円、工事費423万余円を報告している。そのほか注目すべきは、神野新田農事実行組合が神野新田土地株式会社から開放されて購入した天然魚池魚場、荒地などの土地や建物を吸収したことで、第二期の財産目録には、組合管理地、田、畑、宅地、池沼等139町余の記録がある。 この資産は後に公民館など一部を町内会等へ譲渡されたほか、大部分は神野新田土地改良区に継承され、重要な役割を果たすのである。

 神野新田土地農業協同組合は第2年以降も堤防護岸工事、堤防目塗、樋門改築・扉新調、県・市直営工事への協力、用排水路工事、道路・橋修繕工事、13号台風被害復旧工事への協力(別項)など護岸の重責を果しつつあったが、昭和29年(1954)にその役割を神野新田土地改良区へ引継いで解散することになった。その理由は、同年6月12日に開かれた総会で「本組合の地域を維持管理していくには、農業協同組合法を適用するよりは、土地改良法を適用して事業を進めていくのが事業の性質上最も合理的であると、県当局から指示もありました。従って本組合は解散しても、事業の全部を神野新田土地改良区が引継ぎ、神野新田地内の維持管理、台風13号による災害復旧工事等を施行することとなっています」と石部太之助組合長より報告された通りであった。

 なお、昭和26年9月設立した神野新田土建株式会社 (現神野建設株式会社)の発足に当り、当組合は工事用機械を譲渡するなど、多大の協力をした。

 4.神野新田土地改良区の発足

 明治32年の公布以来、農地の充実・拡大と宅地成のよりどころとなった耕地整理法に変わって、昭和24年8月、土地改良法が制定された。しかし、戦中戦後の低迷のため所期の事業目的が未達成の整理組合は、耕地整理法の適用の3年間延長が認められた。

 神野新田二同地区の耕地整理組合(神野新田耕地整理共同施行地区)は、昭和25年12月には換地処分を終えて事業を完了したので、翌昭26年(1951)

 

   神野新田土地改良区設立

  認 可 愛知第13号 昭和26年9月19日

  地 域 神野新田二回地区170町5反

  目 的 排水施設の維持管理

  経 費 受益の限度に置いて分担

  申請者 真野七郎、服部安吉、柴田周一、柴田力、柴田信、早川恒雄、鈴木武雄、柴田正一、滝川春雄、

      都築賢太郎、 伊藤八十八、鈴木源治郎、兵藤音治、阪柳宏勝、鈴木竹一

  代表者 鈴木武雄

  設立同意者 土地改良事業参加有資格者141名全員

  理 事 鈴木武雄(理事長)、真野七郎、 柴田周一、柴田正一、鈴木竹一

  監 事 早川恒雄

 

1月、表のごとく二回地区のみを対象地域とし、排水施設の維持管理を目的とし、同地区の耕地整理組合の代表者であった鈴木武雄を代表者とする「神野新田土地改良 区」設立の予備審査が申請され、7月の申請を経て9月19日に認可された。東三河で2 番目であった。事業の目的は、昭和22年に二回地区に設置された排水機の維持管理で、土砂吐水門や水路や機器の点検などに当った。この排水機は、後に豊市下水道に移管された。

 排水機の設置は神野新田の永年の懸案であった。神野新田の排水は、区画整理された多くの排水路によって汐遊びに注ぎ、3号・5号地区8ヵ所、二回地区2ヵ所の合計10ヵ所21門の自然排水門から三河湾、柳生川河口に排水されている。小潮時には海面水位が低くならないので門が開かず、排水不良となる。その故か、すでに大正6年(1918) に初代神野金之助が愛知県一色町の藤高新田および福田村の排水機を視察した記録がある。また、昭和16年にも二回地区と二十間川河口へ排水設置のための助成を愛知県へ申請している。しか 実現したのは第二次大戦であった。

 昭和27年11月26日に「知事の任命すべき監事」として神野新田に住む県議会議員河合郎が任命された。

同27年12月12日の総会において役員の変代があり、理事長に橋本義一が就任した。

 昭和27年(1952)4月1日に牟呂用水土地改良区(理事長河合郎)が設立され、神野新田全域もそ の地域に加入した。

 5.神野新田全地域に拡大

 神野新田土地改良区の地域は、二回地域のみから神野新田全地域に昭和29年(1954)3月8日付定款変更認可によって拡大され、ついで事業目的も同年4月5日付事業計画変更認可により拡大された。すなわち、昭和27年に三郷および五郷地区の耕地整理事業が終了するや、同年7月神野新田土地農業協同組合は、組合員全員に「土地組合同様、一本の改良区に拡大すること、および神野新田土地農業協同組合の所有する資産の処分 [㋑天然養魚池、人工養魚池、組合事務所の敷地建物、山林は無償で土地改良区へ譲渡、㋺各字公民館、消防器具置場、教員住宅等の公共施設の建物敷地は買入代金を以て各字へ譲渡する、㋩新田内にある雑種地 (池・草生地)は時価で個人所有に処分、㊁中学校耕作地は学校の実習用として保存し、適当な機関に所有権移転若しくは三郷部落所有とし学校へ賃借]の賛否を問い、多数の賛同を得た。これを承認する神野新田土地改良区の臨時総会は、13号台風の被害の影響と思われるが、遅れて昭和29年1月2日であった。定款変更申請書には「産業、経済、用水ならびに歴史上相関連している神野新田一円を全地域とする土地改良区に地域を拡張し、事業も排水機の維持管理のみに限定せず、地区内の農道、用排水路 立切、樋管、橋梁等の維持管理をなし、農業生産の増加に資せんとするため」と書かれている。事業計画変更の理由も同様の趣旨であった。地域拡大の結果、有資格者は550名と拡大した。

 なお、時も同じ昭和29年1月23日に豊橋西部土地改良区が設立され、二十間川河口(ユノ割)に排水機を4台設置するという県営土地改良事業が発足し、すでに昭和25年に排水機の早期設置を決定していた三郷地区と五郷地区も参加したため、両地区は神野新田・牟呂用水・豊橋西部と3つの土地改良区に加入することとなった。豊橋西部土地改良区の範囲は三郷、一部を除く五郷地区と牟呂吉田方地区の1,414町歩におよぶ。当地区は東から西に向って約400分の1の緩傾斜で、標 ○0.23m~(-)0.90mの水田地帯である。牟呂・吉田方地区の排水は、五間川と八間川および十間川に集まり、二十間川を経由して三河湾に注いでいる。田植時の湛水時間が長く、昭和初期から牟呂の芳賀保治、大林和助らは機械排水の必要を説いていた。戦後、神野新田五郷地区および二回地区の排水機設置に刺激され、3号地区と吉田方地区はそれぞれ別個に排水機設置を計画したが、県当局は二十間川河口にまとめて設置した方がよいと結論し、愛知県下でも例の少ない大規模な機械排水事業が展開されることになったもので、『豊橋整地事業誌』が、「永年、水と闘ってきた耕作農民の勝利」と評価している事業である。4台の排水機は、昭和32年に完成した。

 地域が神野新田一円となった昭和29年の収支、資産等は表の通りであるが、170町余の土地や事務所など財産の登記、水防演習、13号台風の被害復旧などが注目される。

 

  神野新田土地改良区の支出額、資産、主な事業 (昭和29年)

   支出額 9,151,613円

                           円

     収入の主なもの  組  合  費   2,120,120

                           池沼等賃貸料     931,208

                           借   入   金   3,943,555

   支出の主なもの   事   務   費     531,165

                           事   業   費   2,045,267

                           土 地  購 入   2,010,447

                           災害復旧負担金 3,716,400

   資産主なもの

                                                  反畝步

                           汐        除        926.4.11

                           養   魚   池   769.1.10

       事務所敷地等         11.0.7

   (7月6日神野新田土地農業協同組合より引継いだ財産の登記完了)

  総  地  積     895町7反

  組合員数     670名

 

  主な事業 潅漑排水、用悪水路・農道・橋梁・排水機・樋管等の維持、護岸協力、警備

       (水防演習7月9日)等、開拓報恩祭(4月15日)、特に13号台風による被害復旧に

       全力をあげ、一応の復旧ができた。